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九州電力に感謝し、心から応援します

フェイスブック篇

平成25年9月22日

【産經新聞(九州山口版/平成23年11月4日(金)掲載の意見広告)】

 (かつての記事ですが全ての原発が停止させられるに至った現在、今一度電力会社に奮起していただきたく再掲出いたしました。なお長文のため分割しましたが、やはり一体性維持のため全文掲載の形に改めました。旧版にご意見をお寄せいただいた方には、版の更新による削除をここにお詫び申し上げます。)

■人類史とは事故との対決史

 およそ人類史ほど事故との闘いに明け暮れてきた歴史はない。とまれ自然界に事故があるとすれば、それは天災地変でしかありえず、進化の過程における突然変異の類しか思い描くことができない。しかも、それは事故とはいわず地変や現象等の語彙をもって語られる。

 私たち人類は自然の脅威と戦い、それを克服するべく夥(おびただ)しい建造物を作り、今日まで身を守ってきた。タイのバンコクにおける洪水はニュース報道で目に触れることができるが、古代エジプト人がナイル川の氾濫といかにすさまじい死闘を展開してきたかを今となっては知ることは難しい。

 しかし、エジプトという国家が存在し、国民が生活を営んでいるということは少なくとも彼らの祖先はナイルを治めてきたということなのだ。それは丁度、徳川の治世下、木曽川の下流に位置する濃尾平野を、堤の決壊や洪水の絶えない不毛の湿地帯から人の住める肥沃な大地に変えた薩摩義士団の言語に絶する働きに似ている。

 さて、現代においては自然の猛威に対しかつての時代よりは遥かに備えができてきたとはいえ、日々事故との闘いに終止符を打つことができないでいる。それは自然との共存を図ろうとすれば人工的建造物を作らずにはおれないし、作れば作ったで不断の維持管理から逃げる訳にはいかないという宿命による。

■恐怖に屈せず戦いとった現代文明

 人工的に作られたものはいかなるものであれ、設計ミスもあれば、それがなくても風雪による劣化に見舞われる。あるいは使用し、操作する側に起因する未熟さや慢心もあるだろう。いずれにしてもすべて出自が人工的に作られたものである限り、瞬間瞬間が事故と隣合せといっていい。

 話を転じて大陸支那が唐の時代、わが国・奈良にむかった鑑真和尚が五度失敗し、六度目に成功したように、かつて海路は活路であると同時に死路でもあった。また近代においては、航空機の発達はイギリス・コメット社のジェット機の連続する空中分解事故に象徴されるように、恐怖との対決であった。

 タイタニック号の華やかな処女航海が北海の巨大氷山との衝突であえなく潰(つい)えたように、国威をかけた飛行船ヒンデンブルグ号はアメリカにおいて大観衆の見守る中、炎の海に包まれた。それは丁度スペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故のようなものだった。250万個の部品を正確に組み立てて宇宙空間に射出するスペースシャトルは、全ての工程が事故との闘いそのものといえる。人工的に作られる物との格闘とは全てそういうものなのだ。

 私たちは今日も列車に乗り、自動車を利用する。建物に入れば昇降機に乗り込んでお目当ての階に行く。中華人民共和国の高速鉄道事故は記憶に新しいが、尼崎の列車事故は本当に痛ましかった。戦後では三河島の大衝突事故を覚えておられる方も多いだろう。枚挙に暇がない程、鉄路の事故はあるが、自動車による事故に至っては、わが国だけで年に5000人以上の人が死亡し、50万人以上の負傷者を生み出している。毎年、日清戦争の規模を遥かに上回る犠牲者を出している計算だ。

■決して叫ばれない自動車の全廃

 しかし、ここで奇妙な疑問につき当たるのは私だけであろうか。

 それはこれだけ海難事故や飛行機の墜落事故がありながら、どこからも船舶や飛行機の製造を全廃しろという声が上がらないことだ。鉄道事故の歴史がこれだけありながら、線路の廃止は叫ばれない。恐らく今日もわが国のどこかで交通死亡事故はあるだろう。しかし、自動車の全廃を主張し、籠と早馬に戻せという人は皆無だ。

 この疑問への回答は極めて単純かつ明快である。それは私たちの今日は、利便性を追求してきた結果であり、アーミッシュ村のような生活は観光で味わうことはあっても、とても日常化するには耐えられないということに外ならない。

■電力会社こそ戦後復興の真の立役者

 電気の乏しい生活を幼い頃経験した私は、電灯が憧れだった。工場や公共施設を優先させ民需を後回しにする配電計画によってわが国の戦後復興は早められた。なけなしの国家予算を「子供手当」で浪費しなかった歴代の宰相と、国家的集票予算を組まず買収手当に一顧だにしなかった戦後の保守内閣の節度に感謝せずにはおれない。お陰でわが国の近海に米軍によって敷設された1万個の機雷を除去できたにとどまらず、港湾の整備や河川や護岸工事が実行でき、戦災の焼け跡を自衛隊なしで復興させ、広島・長崎の惨禍から僅か19年目の昭和39年10月10日にオリンピックを開催できるまでに至ったのである。

■巧妙に仕組まれた原発悪玉論

 千年に一度ともいわれるこの度の地震津波によって、稼働後50年にも満たない原子力発電の歴史を全廃させるような声が上がるのは何故だろう。電力会社の経営陣がまるで周辺住民を煽ってでも電力供給を急がせていると扇動しているのは一体誰か。悪いことは、そしてしてはいけないことは原子力発電を止めることであり、電力会社にいわれなきバッシングを仕掛けることであり、経営陣を袋小路に追い込むことである。

 地域の活性化や再生にとり電力は必需品である。それゆえそれを発電し供給する原子力発電はなおさら不可欠である。私たちは原子力発電の仕組みを全廃させることで、次なる事業を密かに画策している人たちを特定しなくてはいけない。火力発電、水力発電の事は全く論評せず、原子力発電だけを目の仇にする人に注意しなくてはいけない。

 なぜならば今、世界の発電の趨勢は火力、水力から原子力に軸足が移りつつあるからであり、いわばこれが偽らざる実相であるからだ。

■反核運動を担うプロ市民の偽善と欺瞞

 何万、何十万人もの死者や負傷者を出しつづける自動車の全廃を叫ばない人が主張する「原子力全廃」を偽善や欺瞞という。私たちは原発論議を、反核運動を担うプロ市民に任せすぎた。反核運動とは自由主義、民主主義の恩恵を受けながらも、自国の推し進める核関連政策に反対する人々で,共産主義、独裁主義、全体主義の国家が推進する核政策には反対しないことで知られている。

 電気の歴史をトーマス・エジソンの時代に戻してはならないし、ライト兄弟の達成した飛行機の黎明期に現代の航空機産業を逆行させてはいけない。それは丁度静止衛星の打ち上げ計画を御破算にするのと同様であり、自動車や列車を廃し、牛車、馬車の時代に戻すに等しい自殺行為だからだ。

■地元がこぞって応援すべきは九州電力と原子力発電

 福岡に住む私たちにとって、九州を代表する九州電力こそが、私たちの日常生活と事業活動を根幹から支えてくれている親企業である。西鉄大牟田線が運行し、銀行の自動支払機が機能するのも電気あってこそで、コンビニが24時間年中無休で稼働できるのも停電していないからである。煌々と輝く夜のネオンやヤフードームもすべて発電の賜物であり、OA機器や携帯端末も電気なしでは玩具にすらなりえない。

 電力会社とは社会を人体に譬えれば心臓そのものといえる。送電線は血管であり、人里離れた一軒屋にまで及ぶ姿はさながら足の爪先まで血が通っている状態と同じだ。

 日々の文明の恩恵を享受している私たち(サイレントマジョリティ)は電力会社や原子力発電に対してノイジーマイノリティが発するいわれなき風評に惑わされず、地域を、生活を、そして事業を守っていかなければならない。これがわが国を守り、子孫を守って行くことにつながる。

福岡市民、県民の皆様が、今こそ九州電力に激励のエールを送って下さることを切に祈念する次第である。

スタジオ日本 日曜討論番組を支える会

代表世話人 小菅亥三郎